26〜短命なる星にて

もうどれくらい経ったのだろうか。落下の感覚などとうの前に忘れている。ひたすら続く暗闇は、常人ならば思考を緩やかに停止させていく事だろう。
しかし翁の脳は未だ活発に働いていた。奇跡を執し続けた翁だからこそ自我を保ち続ける事が出来たといえよう。この穴の果てにある奇跡の源泉、一日しか生きられない星。マリエルの故郷。
途中何度も道が分かれていたことなどまったく気にも留めなかった。ただ<奇跡>の二文字だけを頭に思い浮かべて、無意識に道を選択してきただけのことだった。二つに分かれている分岐点が千回続けば、たった一つの正解に辿り着く為には二分の一の千乗の確率を引かなければならない。零ではないから不可能とは言い切れない。しかし天文学的な数値を潜り抜ける確率は、実際に不可能と言って差し支えない値である。
だからこそこれは、これこそが翁にとっての奇跡だった。しかし翁がそれを自覚するに至る事はなかった。
「おお……っ!」
終わりがないようにも思えた深すぎる縦穴を突き進んでいた翁は、やがて前方に光を発見した。それは落下のスピードに引き寄せられるようにどんどん視界一面に広まっていき、翁はついに薄紅色の光で溢れる空間に辿り着いたのだった。
落下の衝撃は凄まじく、隕石でも降り注いだのではないかという程のものだった。地面を大きく抉り取り、奇跡の粒子が舞い上がる。
翁は何とか一命を取り留めた。肥大した左腕と巨大な鳥足のおかげだった。
「ぐぅ……うぅ……!」
力を振り絞って立ち上がる。ここまで辿り着いたのだ、死んでたまるものか。
見渡すとそこは草原のようだった。地中だというのに、青々と力強く根付いている。
風が一陣吹き抜け、草をざわめかせて消えた。
まったくもって不思議な空間だった。こんな穴蔵の底に、生命が息づいているのだから。さすがはもう一つの星と言うだけのことはあった。
しかしこの世界を広く見渡すことは出来なかった。薄紅色の奇跡の粒子が濃霧のように高い密度で充満しているからである。落下してきた穴が見えない程である。
翁は無限に広がる奇跡の粒子に歓喜し、すくい上げるようにして肺いっぱいに吸い込んだ。顔の綻びが止まらない。
「さあ、溢れる奇跡達よ! 私の悲願を果たす時だ!」
両手を大きく広げ翁が声を張り上げる。この瞬間、奇跡は全て翁のものだった。
地上に残る搾りカスのような奇跡の粒子になど用はない。ここにはそれこそ掃いて捨てるほどあるのだから。
野太く、しかししわがれた声が反響もなく寂寥の大地に響き渡る。
奇跡の粒子達は剥き出しにした欲望に反応して、翁を更なる肉体へと変えてくれる──筈だった。
声が消えていき、辺りに静けさが戻った。この世界にも、奇跡の粒子達にも、翁の身体にも、何も変化はなかった。
両手を広げたままの翁の全身を、風がくすぐるように吹き抜けていった。
「な……」
何かの間違いだ、そう思い込んで再度叫ぶ。心の底から願いながら。
それでもやはり、何も変わることはなかった。
「何故だ……何故なのだぁああああっ!!」
「公平にー、公平にー」
大仰な仕草でかぶりを振る翁に、いきなり背後から声が掛かった。
聞き覚えのある声だった。翁は我に返りすぐさま向き直った。
草を踏み分け、無為に浮かんでいる奇跡の粒子達の中から姿を現したのは、絶対基準隣人だった。
「ハーフグレイ……!? 何故貴様がこんなところにいる!」
「タネは明かさないよ、自分で考えるんだねえ」
絶対基準隣人は翁の数メートル手前まで近づいてくると、立ち止まってシルクハットを指で軽く押し上げた。相変わらずの楔で射抜かれた目が、小刻みに揺れた。
「さて……僕は君に忠告した筈だ。奇跡を願うな、と」
絶対基準隣人本人には、翁はほとんど面識はなかった。そして忠告された覚えもまたなかった。
しかし、次に絶対基準隣人が発した言葉で、それは明らかになった。
「十三の意味はどうやら理解できてはいないようだねえ」
「な……では仲葉灰というのは……」
「そう。戸籍上の本名さ──まあ偽装なんだけれども。僕にだって住所くらいはあるんだ、それなりの名前は必要だよねえ? 紬町上遊馬二─五十三番。あ、そうそう名前を平仮名にして英訳するといい」
愕然とする翁が愉快らしい。絶対基準隣人は楔をぐるんぐるん、と撫で回しながら笑う。
「ハーフグレイ……!」
翁は今にも絶対基準隣人に飛び掛りそうな勢いだった。そんな怪物を制するように絶対基準隣人は口を開いた。
「竹取翁。君が何故もう奇跡の恩恵を受けれないのか──簡単な事だよ。君の欲望に見合っただけの奇跡が君にはもう宿っている、ただそれだけの事」
「わ、私の願いは数百年分だ……! こんなもので終わる筈が──」
「数百年間紬町の支配者を務めた桐崎家に取って代わって、竹取家が支配者になる、かい?」
絶対基準隣人は馬鹿にした口調で翁しか知らない秘密を言ってのけた。
「何故それを知ってる!?」
「僕は絶対だからねえ。絶対なる基準者にしてこの世の真理、世界の方程式。知らない事などないのだよ」
「くっ……!」
歯軋りをして左腕に太い血管を浮き上がらせる翁。絶対基準隣人はそんな翁を前に飄々とした存在感を崩す事はなかった。
「しかし貴様にも分かるまい、我が竹取家の悲願を! 影に甘んじてきた悲痛な先祖の叫びを!!」
「そうかい。でも奇跡は打ち止めなんだから──随分と底の浅い悲願だったんだねえ?」
人差し指と薬指で両目の楔を楽しそうに押し込み、絶対基準隣人が哄笑を上げる。
「き、貴様あぁぁっ!!」
激昂するまま翁は絶対基準隣人に飛び掛った。マリエルや匠ですら反応しきれない左腕の一撃を、しかし絶対基準隣人は事もなげにかわした。
「やめたまえ。そして諦めたまえ。君はこの世界に相応しくない」
「うるさい若造がぁあ!!」
老獪な顔満面に怒りの形相を浮かべて、翁が絶対基準隣人に肉薄する。
絶対基準隣人は今度は避けなかった。無骨な拳で力のままに叩きつけた翁の一撃を、手のひらで軽く受け止める。
「なに……!?」
「翁、君は西洋の知識には疎いのだねえ」
左腕を払うと同時に絶対基準隣人が流れるような動作で身体を半回転させた。
翁が危機を感じて飛び退くよりも早く、絶対基準隣人は更に半回転して右手を突き出した。
そこに突然赤錆びた細長い楔が出現した。出現した時には、既に翁の胸を貫いていた──いや、翁の胸の中に直接楔を出現させた、と言った方が正しい表現かもしれない。
「え……?」
「十三は大アルカナの十三番目の事さ。私なりに君の末路を暗示しておいた。回避するチャンスはいくらでもあったのだけれどねえ……っておや、もう死んでいたか」
絶対基準隣人は軽く肩を竦めると、楔に貫かれたまま事切れた翁に背を向けた。
断末魔の悲鳴もなかった。いとも簡単な結末だった。

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