8〜最愛の妹へ

相変わらず、感覚的に捉えられるものは奇跡とおぼしきエネルギーだけだった。心以外存在しない自分の身体でどうすれば奇跡を封印できるのか、そんな凪の疑問はすぐに晴れた。自分に心しか存在しないのなら、願うしかなかったからだ。色も形もないエネルギーの塊を、ただただ静まれと願う。
そう、先程まではそれで少しづつエネルギーは弱まっていったのだ。しかし今、何かが邪魔するようにその願いを遮っている。
孤独。一人ぼっちの世界で凪が誰かを求めるのは、自然な事である。しかしそれは奇跡を止めたいと願う事を中断させてしまう。
他の事をまったく考えずに、一つの事を願い続けるというのは想像以上に難しい。それこそ悟りの境地に近いものがある。少しでも他の事を考えればエネルギーはどんどん膨れ上がっていく。
地獄のような堂々巡りである。自分には奇跡を止める以外、すべき事もなければ出来る事もない。そうは思っていても、一人じゃ押し潰されてしまうのも、また事実だった。
助けて、助けて。
誰でもいいから、声を下さい。
その願いは勿論願いでしかなかった。

「うぅ……ぁ、ぁ……!」
「どうしたの、凪?」
突然声を張り上げた凪に雪は驚いて視線を落とした。翁をもう一度見て安全を確認してから、凪を抱き上げて手を握る。
「そっか……奇跡を止められないのね……。一人の世界は寂しいもんね。でも凪、頑張って。お姉ちゃんはここにいるから!」
きつく抱きしめて励ます。でも声は届いていない、それは分かっている。
(ちょっと待って──)
そこまで考えて、雪の脳裏に忘れていた欠落巫女の時の記憶が蘇る。
(私には匠君の声が聞こえていたわ……)
いてもたってもいられなくなって、雪は凪をそっと横たわらせると木の陰から飛び出した。
「匠君っ!」
「うおおおおっ!」
翁の左腕の一撃を両腕で防いだ匠が、雪の真横の木に吹っ飛んできた。
「ひっ!」
いきなりの事に身を縮こまらせる雪。衝撃と音で少ない葉が舞い落ちる。
肩で息をする匠は軽く舌打ちをすると、また向かって行こうと立ち上がった。
「待って!」
遠く離れていこうとするその手を掴む。
「あ? 何だよ雪さん今忙しいんだ!」
「ねえ凪の声聞こえる!?」
「聞こえねえよ!」
匠は乱暴に雪の手を払うと、マリエルと桐崎の戦列に再び加わっていった。
雪は匠の感触が残る手を見つめたまま立ち尽くしていた。
(どういう……事……?)
自分の声は聞こえて、凪の声は聞こえないとはどういう事か。
「もっといいがらくた出しなさいよ!」
戦いの場ではマリエルの怒号が飛び交っていた。
「がらくた……」
思わず言葉が飛び出す。雪の思考回路の中で、考えもしなかったルートを一筋の電流が伝う。
誰からも必要とされない、無価値なものに対して匠の力は発揮される。そして、欠落巫女だった雪に匠の声は届いた。
「なんて……こと……」
雪は桐崎を見た。桐崎は気づく様子もなく、必死に見えない糸を繰っていた。
涙がまた溢れた。悲しいからではない。悔しかった、それだけだった。
「凪……ごめんねえ……!」
覆い被さってその四文字を繰り返す。
微かに動いた手を、雪は宝物のように大事に大事に握り返した。
それからすっと立ち上がる。匠、桐崎、マリエルの三人が、傷つきながらも翁に立ち向かっていた。空間の断裂に遅れて爆発が巻き起こる。肥後守が回転しながら標的へと牙を剥く。
その戦いの中へと、雪はゆっくりと歩き始めた。奇跡に侵食されてもいない普通の人間の雪にとって、それは自殺行為以外の何でもなかった。
「な──雪、下がってろ!」
いち早く気づいた桐崎の静止を、しかし雪は聞き入れる事無く進んでいく。
マリエルがよけた白髯が雪へと迫る。自然と目はつぶらなかった。
幸運にも髯は頬を掠めて戻っていった。それでも威力は凄まじく、ばっくりと肉は裂け血が流れた。
痛みはあった。しかしやはり目はつぶらなかった。一直線に翁へと歩いていく。
「おい! 何やってるんだ! 死にたいのか!?」
たまらず桐崎が雪の前に立ちはだかった。雪は一瞥すると一瞬だけ立ち止まったが、すぐに歩き出した。
「最後くらい、本当に愛する人の近くにいてあげなよ」
通り過ぎ様言われた言葉に感情はこもっていなかった。桐崎にそれ以上雪を止める事は出来なかった。
「雪さん……本当にどうしちゃったんだよ」
前にいる匠までもが珍しく心配そうな声を上げ振り返った。雪はそこまで歩調を崩さずに近づくと、優しい笑顔を見せた。
「匠君、どうか凪の声に耳を傾けてあげて。君にしか出来ないんだから」
装束姿に似合わないガッツポーズを作ってみせ、雪は匠の前をも通り過ぎていく。
「え、ちょ、雪さん! 聞こえないんだって──」
「頼んだわよ!!」
戸惑う匠に振り返って、雪は笑顔で大きく手を振った。それはまるで旅立ちの別れのようだった。
「何をしに来たんだい?」
目の前までやって来た雪に、翁が理解に苦しむ表情で問いかける。
「妹を救う為、そしてあなたを倒す為に」
隠し持っていた一振りのナイフを取り出す雪。明らかに安物で、切れ味がいい訳でもない。
「ほっほっほ……! それで何をしようと言うんだい?」
翁の笑いにも、雪はその無表情の顔を崩さない。そのまま右手でもって斬りかかる。腰の入っていないまったくの素人の動きだった。
「うぁ……」
一撃だった。
翁の左手の爪が、深々と雪の身体を貫いていた。その一瞬で事切れた雪の肢体が翁の顔の傍まで持ち上げられる。ナイフが遅れて手から離れ、地面に落ちた。音はあまり響かなかった。

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