5〜紅い瞳が揺れる

言うや否や、翁がもう二本の足で地を蹴った。屈強なバネを使ってやはり反応の追いつかない速さで、一気に間合いを詰めて来る。しかし、マリエルは元々避けようとはしていなかった。
「生誕を待つ聖母の棺(マリーズ・コフィン)!!」
予め定めておいたポイントに向かって創造力を発動する。翁の足元が揺らぎ、波紋が波打った。
目の前に白い霧が噴き出し、一気に氷の樹木が完成する。半透明の輝きの中に、翁の鳥足が確かに捕らえられていた。
「ふん、あっけない」
マリエルの呟きに、
「そうでもないよ、マリーや」
翁が答えた。
反射的に上を向く。氷の木から鳥足を切り離した翁が驚いたかい、とでも言いたげに目を細めた。
「別れ行く恋人達(リパルス・ラヴァーズ)!」
危険を感じて慌てて翁を空へと突き放す。
翁は笑いながら身を委ねて、しかしその長い髯をマリエルの身体に絡ませた。
「なっ!」
一緒に空に投げ出されるマリエル。振り解こうと髯を掴むが、おそろしく硬く、力でどうこうできるものではなかった。加えて締めつける力がどんどん強まっていく。
「せめて穴の横で死なせてあげよう」
翁の目の前へと自在に動く髯によって更に引き寄せられる。
左腕を振りかぶった翁が待っていた。
「彷徨う燐火の蔓(ウィスプ・ヴァイン)!」
両手を頭の上で交差させ、左肩を狙って光の鞭を振り下ろす。
太い弦が揺れるような鈍い振動音が響く。
付け根は脆いだろうと思ったのだが、まったく、かすり傷一つついていなかった。
「それは肩叩きかな? 今更孝行しても……遅いよ、マリーや」
首を斜めに倒した翁が嘆く。
拳がまっすぐマリエルの背中へと振り下ろされた。
「あ……」
一瞬仰け反って、それから髪の毛がふわりと垂れるのに合わせて翁はマリエルを解放した。
地面に落ちるのに一秒と掛からなかった。
それでもすぐにマリエルは立ち上がる。悲鳴を上げる内臓に逆らい、震える筋肉を押さえつけて。生まれ持った異常なまでの打たれ強さの賜物である。
しかしそれを持ってしても、もう身体の限界はそこまで来ているようだった。
腰から下の感覚がまったくない。立ちあがれたのが不思議なくらいである。
「元気に育ったものだねえ」
遅れて落下してきた翁が、降り立つ直前に鳥足を再生させる。軽い地響きと共に再び翁が立ちはだかった。その振動で腰の砕けたマリエルは尻餅をついて転倒した。
感じた事のない感情がマリエルの中に生まれた。
色褪せる事のなかった決意の瞳も翳りを見せる。
初めて、本当に初めて、マリエルはそれを覚えた。
「そんな顔をしないでおくれ」
翁が憐れんで頬の皺を寄せる。
自分はいったいどんな顔をしているというのか。そんなにいつもと違うのだろうか。自分では全く分からない。分からないまま首を横に振る。
「怖がらなくていいんだよ、マリーや」
「怖……い……?」
使った事のない言葉が口から出る。恐怖なんて、人間だけが使う言葉の筈だった。九条と戦って死にかけた時でも、怖いだなんて思いはしなかったのだ。
「そうだよ。でも、心配しなくていい。すぐに解放してあげるからね」
親心に見立てた悪意がマリエルに手を伸ばす。
「いや……」
震える唇に乗せて小さな一言を吐き出す。
その言葉ごと飲み込むように、翁の左腕がマリエルを鷲掴みにする。
こんなところで終わる訳にはいかないんだから、いつでも高く持ち続けた志しが、想いが、どうしても出てこない。
マリエルは無意識のうちに、すがるように匠の姿を捜し求めた。首を左に振り、右に振り、遠く離れた木の脇に見つける。雪が避難させたようで、横には桐崎と凪も並んで横たえられていた。
これは確かに自分の招いた結果だ。しかし、一人ぼっちだった自分に、一人で生きていくと決めた自分に、どうして人間達と手を取り合う事が出来ようか。誰も奇跡なんて望まない。匠だって自分とは違う意志で望んでいるだけだ。
「よそ見はいけないよ、マリーや」
左腕から白髯へと、拘束する方法を変えて翁が言う。左腕を自由にした、という事はトドメを刺す瞬間が迫っているという事だろう。
<一番大切なもの>は何か。

<<前目次次>>
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送