4〜願いは幾星霜

「何が一番大切なのか……考えろ、馬鹿」
滲んだ血に滑る手が、匠の身体を支えきれずに落下する。
さすがの匠も意識の保有臨界点を越えたらしく、それきり動かなくなった。
苛立ちの収まらないマリエルは、しかしどこか後味の悪そうな顔を見せて穴の淵へと戻っていく。
背後で何か重たい物を引きずる音が聞こえたが、マリエルはさして気にも留めなかった。それよりも今はこの後の対処をどうするか。それが全てなのである。
掻き乱された思考を落ち着けて戦う態勢を整えるマリエル。
自分は最初から一人だったじゃない。そう言い聞かせて相容れない理想を排除する。結局翁との関係だって、互いに利用していたに過ぎないのだから。
「私を騙した事、後悔させてあげるわ」
上昇する光に乗ってゆっくりと姿を現した翁に、小さくて紅い唇が強く呟いた。
「出来るのかい」
口元に微笑みをたたえたままで、随分と姿を変えた翁が答える。
顔は以前と変わらぬままだったが、白い顎髯が地面に垂れるほど伸びている。左腕は丸太のように肥大し、その爪先は鋭利な刃物のように研ぎ澄まされているのが見て取れる。そして背中からはバネの役割を果たすよう、関節が大きく後ろに向かってくの字に曲がっている鳥と同形の足が二本、生えていた。鳥足は長く、それだけで翁の身長程もある。見た目で言えば翁の身長は二倍になったという事になる。
完全に奇形化してしまった翁だったが、マリエルは驚かなかった。むしろ驚いたのは、以前に一度奇跡に侵食されている筈の翁が、こうしてもう一度侵食された事に対してだった。
(それだけ奇跡の力は凄いってわけね……)
悲しむべきか喜ぶべきか、複雑な心境に陥りながらもマリエルは自分より少し高い位置に佇む翁に向かって手をかざした。最初に使う力はもう決めている。
「狂い咲く紅い薔薇(スプレッド・ローゼス)!」
拳大の赤い光の球が翁へと向かって放たれる。四散させない、威力重視の攻撃である。圧縮されたエネルギーが空中でオレンジ色の爆風となって解放される。
光が翁を黒いシルエットに変えて飲み込んでいくのを、マリエルは冷静に見つめる。手応えはなかった。
長い閃光が晴れた後で、翁はまったくの無傷だった。いびつな左腕一つで身体を庇ったらしい。
「素晴らしい」
抑揚のないしわがれた声が降り注ぐ。マリエルは手をかざしたまま、表情を変えずに異形の翁を睨み続けた。首の後ろ辺りに一筋汗が伝った。
「何十年……いや、何百年の悲願が、今ここに叶ったようだよ、マリーや」
翁が跳躍する。一瞬消えたかと思える程高く飛び上がり、直後マリエルの目の前に地響きを鳴らして着地した。鳥足の関節が思いっきり曲がり、その衝撃を吸収した。
「よくもまあ、そこまで美意識を捨てれたものね……」
「これは機能美と言うんだよ、マリー。さあお前の身体で試させておくれ」
翁が左腕を振りかぶるより先に、マリエルは既に後ろへと飛び退る動作に移っていた。しかしその獣並みの反射神経をも追い抜いて、巨大な拳はマリエルの身体を打ち抜いた。
木がなかったらどこまで飛んでゆくのか──華奢な身体も相まって突風のように幹へと叩きつけられるマリエル。短い呻きが漏れる。そのまま崩れ落ちそうになるのを足と背中で支えて踏みとどまった。
力の違いは充分理解していたつもりだった。それでも何とかしなければいけない事も。
しかしここまでとは──マリエルは唇から零れる血を袖で拭って、垂れる前髪の合間から翁をねめつけた。奇跡を目の前にしていなかったらさすがに戦意喪失していたかもしれない。
「奇跡の世界は──」
翁がバランスの悪い両手を広げて晴れやかに言う。
「とても素晴らしいね。まだ片鱗だけだけど、私の欲望に忠実に応えてくれる」
「お前の為の世界じゃないわ……!」
ほほ、と翁が笑う。
「私の為だよ。間違ってもマリーの為の世界じゃない。マリーは一枚岩から目覚めて奇跡を開放する、ただの鍵の役回りだったんだよ」
「言ってくれるわね……」
「もう扉は開いた。だからお休み」

<<前目次次>>
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送