33〜役立たずの愛

「ぅぁ……ん……」
雪は急激に、急速に自分を取り巻く世界が変化した事が最初まったく理解出来なかった。ただ、生まれて初めて体験するかのように機能し始めた感覚に対して、世界はあまりにも鋭かった。
ぼんやりと灯る松明の光、自分の声、石床の匂いとざらついた感触。果ては空気さえも今の雪には刺激が強すぎて、彼女は思わず身体を竦ませて縮こまった。
呼吸をする度に喉の奥に広がる空気はとても冷たく感じられて、まるで極寒の大地にいるかのようだった。
震えは更に感覚を刺激して、耐えられなくなって転げ回るが、今度は床と接触する刺激が身体に襲い掛かり、雪はしばらくの間苦悶の表情で呻いた。その声すら頭に強く響いてしまうのだから、雪は今自分は地獄にいるんじゃないかと錯覚した。
10分程して、身体はようやく落ち着きを取り戻した。感覚に慣れてきたのだ。
やっと苦しみから解放された雪は、四つんばいの格好で全身を激しく上下させながら肺に酸素を送り続ける。
と、自分の服装にようやく気づく。白衣の襟元から覗く襦袢の半襟、木綿の帯、そして緋色の行灯袴。つまりは巫女装束だ。
どうして私はこんな服を、と思ったところで雪は思い出した。この巫女装束を着るまでの、<生きていた>時の事全てを。
「あ……私……どうして元に……?」
「目が覚めたか、雪」
聞き覚えのある声が耳に届く。死にも等しい状況の中でも片時も忘れる事のなかった、あまりにも冷たくて──愛しい声。
「若君っ!?」
振り返ると桐崎はやや離れた場所で床に座り込んでいた。
「どうしたの、その傷!」
思わず立ち上がろうとしたが、激痛を感じて雪はその場に倒れるようにへたり込んだ。
「ずっと座ってたんだ、動けるわけないだろう」
「そんな事ない、そんな事ないよ……!」
立ち上がろうとしては躓き、しかし桐崎には笑顔を向けて、何度も何度も雪は足に力を入れた。
「若君の傷に比べればこんな事……!」
「やめておけ。少し休んだらそっちへ行く」
「全っ然平気……!」
何十回目かの試みで、ようやく立ち上がる事が出来た。言う事を聞かず不安定に揺れ動く足にじっと耐える。
そこからがもっと大変だった。立ち上がる事に比べ、歩き出す事は遥かに難しかったのだ。しかし雪は決してめげずに、ちょっと待ってね、と微笑みかけて汗が滲んでくるのも無視して一心不乱にリハビリを続けた。
訓練をつんだ宇宙飛行士さえ、衰えた筋肉を復活させるには数ヶ月を要する。だから、何の訓練も受けていない女性が立ち上がっただけでも常識外の出来事なのだ。
だが、雪は出来ないなどとはついに欠片も思い浮かべる事はなかった。頭の中を支配していたのは目の前に佇む桐崎、ただそれだけである。
「雪、お前……」
「ちょっと待って、話しかけないでー……」
平均台を渡っているかのように両手でバランスを取りながら、よたよたと近づく雪。あと少しという距離まで迫ると、思い切って倒れるように桐崎に飛び込む。
「ただいまっ!」
しかし桐崎は雪を受けとめはしたものの、返事も抱きしめる事も、頭を撫でる事もしなかった。
「はー。相変わらず冷たいね……」
「……良かったよ、お前が歩けるみたいで」
「そう? 優しい事も言ってくれるんだ?」
桐崎は答えない。
「ねえどうしたの? 傷が痛むの?」
「……こちらから行く手間が省けたからな」
すっ、と桐崎の手が雪に伸ばされた。手は首にそっと触れて──そしてもの凄い力で締めつけ始めた。
「うぇっ……!」
「お前……この私を騙していたらしいな……」
「んな……! 何を……ぁぁ……っ」
「欠落巫女の力を失った事、何故黙っていた……っ! 答えろ……っ!」
ぎりぎりと、雪の喉に指が食い込む。答えるどころか息をする事すら出来ない。それでも尚締めつける力は増し、雪の視界はもやが掛かるように白くなっていった。
と、そこで桐崎は手を放した。
何に抗う事も出来ずに、床に倒れる雪。
一気に気管が開かれる。我先にと押し寄せる酸素に呼吸がままならず、口と喉を押さえて雪は思いっきり咳込んだ。それを手を放したままのポーズで見下ろす桐崎。
「うぇっ、っはぁっ、ごめんね、若、君」
口の端に垂れるものが涙かよだれか分からない顔で桐崎を見上げる。
「私、力なくなっちゃって、伝えなきゃ、って、思ったんだけど、でもそしたら、若君、私の事、嫌いになっちゃうんじゃ、ないかと思って、そしたら言えなくて……!」
桐崎は答えない。
「冷たい若君は、ちょっと寂しいよ? でも、冷たくされる事も、なくなるなんて、私耐えられないんだよ」
桐崎は答えない。
「私、あの何もない世界で、若君がいなくなったら、なんて考えたくなかった。寂しかったんだよ? つらかったんだよ?」
桐崎は何も答えない。
「とても悪い事をしちゃったよね。私のわがままのせいだよね。でも、1つくらい、わがまま聞いてくれたっていいでしょ……? そうじゃなきゃ本当に死んじゃいそうなくらい、寂しかったんだよ。ねえ……、ねえ、どうして何も言ってくれないの!?」
「……それだけか?」
溜まっていた想いを爆発させた雪に、一言だけ桐崎は返した。
「え?」
「言う事はそれだけか? と聞いている」
「若君……!!」
思わず桐崎のタキシードの襟に掴みかかる雪。しかし桐崎は乱暴にその手を払いのけた。
「よく分かったよ……お前がどれ程愚か者かがな。本当は今すぐにでも目の前から消えて欲しいところだが……しかしお前の嘘が意外にも役に立った事も事実だ。それに免じて最後の仕事を与えてやろう」
「な……にを……?」
「そこの新しい欠落巫女が反応する方角に行く。そいつを連れて来い」
と頭を鷲掴みにされる。そして背後を顎で指された。
言われるまま振り向いて、雪は絶句した。あまりの事に頭が回らない。
「凪……!」
「新しい欠落巫女だ。丁重にお連れしろ」
「凪、凪どうして……!?」
立ち上がる事すらもどかしいとばかりに、這うようにして妹の元へと辿り着く。
肩まで伸ばした髪は茶色に染まっているし、随分と洋服にもこだわりが見えてきた感じがする。久しぶりの対面。
しかし、最後に見た時よりも少し大人びていた最愛の妹は、いくら呼び掛けても揺さぶっても、何の反応も示さない。
「若君! どうして凪にこんな事を! いくら私に力がなくなったからって、なんでこの子なの!?」
「その子の意志だからだ。凪君は望んで欠落巫女になったんだよ。お前を助ける為に、な」
「私の……為……?」
「随分と健気でいい子じゃあないか。いらぬ嘘をついて混乱させた姉の尻拭いをするとはな」
情の欠片もない桐崎の台詞だったが、雪は全てを理解した。
自分がどれだけ馬鹿だったのか。何も知らないとはいえ、生き返った事に喜び、最愛の人に会えて涙し、自分だけわがままを吐き散らしてしまった。自分の愚かなわがままのせいで犠牲になった妹を差し置いて、どうして他人を責めれるというのか。
「どうしよう……私……喜んじゃった……」
温もりだけが存在する凪に罪悪を感じながら、もう代わってやれない雪に出来る事は、桐崎の言う事を聞く以外にはなかった。

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