30〜がらくたの誕生

知らない方が幸せな事は世の中にいくらでもあり、また人生という道においても数多く存在する。それは秘密への好奇心を抑えれば避けて通れるものもあるが、中にはどうやっても抗う事の出来ない、運命としか言いようのない事柄もある。そしてそういった事実との不意の対面は、人格そのものを変えてしまう程の強い力を持っているのだ。
年齢的には中学生にあがる頃の事である──匠がいつものように遊んで夕方家に帰ってくると、テーブルの上に1人分の食事が用意してあった。それ自体は匠にとって別段大した事ではなかったが、問題はその内容である。匠の好物が一品漏らさず用意してあったのだ。そんな事は生まれてまだたった数年だったが、これまでで初めてだった。
幼いなりに匠は思う。両親はもう帰って来ないのだと。
蒸発だか失踪だか死んだのだか、それは分からなかったが、とにかく自分は1人になってしまったのだと、そう確信したのだ。
匠はそれから1人で暮らし始める。両親が残していったお金があったのだ。小さな男の子が施設にも入らずに生活をしていけたのは匠の頑固さと両親と暮らした家に対する執着心だろう。とにかく匠は1人で生き抜いていった。
そんな、両親を失った匠にとって、たった一つの拠り所とも言えるものがあった。それは糸が1本切れた操り人形だった。
その頃の匠は糸が切れているのが正しい姿だと、そう思っていた。母親に「糸が切れているのは、この人形にも意思があって人形が自分自身の力で動く為に切れているんだ」、とそう教えられていたからだ。
ある日の事、匠がその人形を持って外へ遊びに行った時の事である。同世代の子供達が1人でいる匠に近づいてきた。
人形遊びをしていたのが目に留まったらしい。匠は誇らしげに人形を子供達へと見せた。この世に1つしかない素敵な操り人形を、羨望の眼差しで見つめる子供達。匠は今の今まで自分の置かれた境遇に対して劣等感は抱かなかった。
それはつまり、裏表に位置する優越感も抱かなかった訳だが、ここにきて初めて匠は優越感というものを覚えた。自分だけが持つ素敵なおもちゃをもってして。
しかしながら、優越感を覚えたということは、やはり劣等感もまたその影に存在するという事を意味するのである。そしてそれはすぐにやって来た。
集まってきた子供達の1人がこう言ったのである。糸が切れてるなんてガラクタじゃないか、と。それを口火に他の子供達も口々にガラクタと匠の人形を指しては囃し立てる。
匠は困惑しながらも必死に糸が切れている理由とその素晴らしさを説明した。
しかしいくら紬町とはいえ、人形が1人で動くだの、そんな御伽話を信じてもらえる訳もなく、匠は生まれて初めての劣等感をすぐさま味わう事となった。
1人取り残された公園で匠は泣き続け、ついには操り人形を遠くへ放り投げて逃げるように帰った。
布団に入って、母親の言っていた事は全て嘘だったのだと思うと悔しくて、拭いた筈の涙がまた溢れてきた。
夜中になると匠はある異変に気づいた。眠れぬ夜はいつも話しかけていたあの人形が手元にない事に、こんなにも不安になる自分がいたのだ。その晩は豪雨で、もの凄い勢いで窓に風が叩きつけられる度に家が唸りを上げた。それは怪物の咆哮のようで、匠は恐ろしくて眠る事も出来なかった。なのに、人形はない。自分は本当に孤独なのだと、1人にはあまりにも広く、暗い部屋で改めて実感したのである。
このまま朝までこの部屋にいたらおかしくなってしまう、と思った時には既に匠は家を飛び出していた。靴も履かずに雨風に身を晒しながら、匠は公園へと急いだ。途中何度も転んで、腕や足の裏は傷だらけになり、パジャマは泥だらけになりながらも、涙と鼻水をびしょびしょの袖で拭ってはひたすら走り続けた。公園は遥かに遠く感じられたが、それでも匠は一時も休む事なく走り続けたのだった。
誰一人いない町をなるべく目をつぶってやり過ごし、やっとの事で公園に辿り着くと、匠は人形を投げた方向を思い出しそちらへと向かった。
そこは噴水広場だった。小さな柵に囲まれた花畑の中心に噴水は鎮座していたが、水は噴き出してはいなかった。おそらくここだろう、と直感し立ち入り禁止の札を無視して入る。
果たして人形はそこにあった。水面に浮かぶ人形はいつも通りの笑った表情だったが、匠には何故だか寂しげに見えた。
足を浸して両手ですくい上げる。また涙が溢れてきて、匠はその人形を抱いて声を上げて泣いた。
「きっと来てくれると思ったよ!」
と、そんな声が頭に響く。驚いて辺りを見回すが、誰もいない。
「僕だよ、匠」
人形を見ると、糸が切れている筈の右手を振っていた。数回瞬きをしてもう1度見る。やはり幻覚ではなかった。人形は明らかに手を振っていた。
「やっと、やっと答えてくれたんだ……ピエトロ君」
「ううん、僕はいつでも答えていたよ。君が目覚めたんだ。君が僕をずっと想っていてくれたから」
「そう……なんだ……。でも、僕はこれで1人じゃないんだね!」
喜んでピエトロ君を高く掲げて、匠は気がついた。雨が、風が、今まで匠をこの場所に来させまいとしていたかのような暴風雨が、ぴたりと止んでいたのだ。
それどころか雲一つなくなっていて、まるで星々が祝福してくれているかのように光を零してくれていた。
その時である。
「公平にー、公平にー。ぼうや、こんな時間にどうしたんだい? 随分とぼろぼろじゃあないか。民家かと思ったら廃屋だった勢いだ。危ないよー? この町の夜は昏いからねえ」
「お兄さんは誰……? 目、大丈夫?」
「んっんっんっ。質問をしているのは僕の方だよ、少年。何をしているのか、と聞いてるんだ。──でもまあ答えてあげよう、僕は絶対なる世界の基準者、<ハーフグレイ>とでも呼んでくれ」
絶対基準隣人はそう言って匠の瞳を塞がった量目で覗き込むと、不安に怯える匠を見て楽しそうに笑った。
「匠、逃げてっ! この人は危ないっ!」
ピエトロ君が警告を発するが、匠は足がすくんでしまって動けなかった。
「ほう、この人形……」
絶対基準隣人が人形をまじまじと覗き込む。その圧倒的な存在感は匠に動くという最も単純な行為すらさせる事を許さなかった。
しばらくすると絶対基準隣人は、にたあ、という笑顔を見せ匠の肩を軽く叩いた。
「んー合格っ。いい友達を持ったね、匠君」
「え……?」
なんで自分の名前を、と匠は思ったが、その疑問を口にしようとすると突然辺りが深く闇に染まった。目が見えなくなってしまったのか、と思ったがそれもすぐに元通りの景色に戻った。しかし星明りの光が照らす目の前に絶対基準隣人はいなかった。忽然と姿を消してしまっていたのだ。
数分後、夜が明けた。それは匠にとって、<がらくた>としての新しい日々の始まりだった。

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