20〜神聖なる覚悟

目的地は桐崎若のいる場所だったが、実のところ適当に歩いていたのだった。明確に場所が分かっているわけではなく、それどころか大体の方向すらおぼつかないのである。先の元へ向かうわけでもない。
にもかかわらず後藤が雨に打たれてまで町を彷徨っているのは、待っていたからである。
通りすがりの公園に入り、雨宿りも兼ねて簡素な造りの休憩所に入る。木を縦に割った長椅子にユリエを寝かせると、後藤はゆっくりと振り返った。
「公平にー、公平にー。って誰かと思えば支配者のところの──後藤君じゃないか」
「間に合わないかと思ったが……良かった」
ずっと前からそこにいたかのように超然と、公園の真ん中に絶対基準隣人は立っていた──後藤と同様に傘を差さずに。後藤は足をふらつかせながらも、休憩所から出て絶対基準隣人の元へと近づいていく。
「なんだ、僕を待っていたのかい。それは随分と酔狂だねえ」
「酔狂にもなる……願いを叶える為ならな。絶対基準、話を……聞いてくれないか」
「んー。断るよ。君にはまったく興味がない。君に出来るのは私の裁きを黙って受け入れる事だけだよ」
「向こうを見てくれ」
「おおぅ! これはこれはユリエ嬢じゃないか。またお目に掛かれるとは嬉しいねえ。ツーペアかと思ったらフルハウスだった勢いだ」
眼球に埋まった楔を振りながら、絶対基準隣人は歓喜した。
「ユリエの為の話だ……聞いてくれるな?」
「この僕と渡り合おうというのかい?」
「悪魔との取引くらい心得ている」
「なるほどなるほど、立派な覚悟だ。いいじゃないか、聞くだけ聞いてあげるよ」
「そうか、助かる。まず……若様を見なかったか?」
「ああ、見たよ。安心してくれ、彼は唯一この町の秩序を守ろうとしてるからねえ。それに瀕死だったし、裁く気はないよ」
「そうか……。絶対基準、奇跡が今日起こるのは……」
「勿論、知っているさ。なんせ僕は絶対だからね」
シルクハットの端を軽く持ち上げて笑う絶対基準隣人。
「なら話が早い。絶対基準、ユリエを……若様の元へと連れて行ってあげてくれないか……」
「さあどうしようかねえ?」
「私の命はどうなってもいい……頼む、ユリエを若様に会わせてやってくれ! もし奇跡が始まってしまったら2度と会えなくなるかもしれないから……」
肩を落としながらも顔だけはしっかりと絶対基準隣人を捉え続ける。まるで絶対基準隣人には関係のない話ではあったが、後藤に出来る事というのはもうそれしか残っていないのであった。
片手で楔をぐりぐり、と回しながら絶対基準隣人は溜め息をつく。眼鏡を直す様なポーズだが、考えているらしかった。
「――しょうがないね、頼まれてあげよう」
「感謝する……」
「では君を裁く。覚悟したまえ」
瞬きをしてもう一度前を臨んだ時には、絶対基準隣人はそこにはいなかった。
「さようなら」
何をされたのかも分からずに倒れる後藤。一瞬で背後に回られ、次に地面が迫ってくるのだけは認識できた。
急速に身体の機能が衰えていく。失いかけの視力で横を見ると、手が大きな楔で射抜かれていた。きっとこれが全身に刺さっているのだろう、と後藤は思った。
後悔はなかった。自分の意識が桐崎若の為からユリエの為へと移り変わった事は自然に生まれ、自分で決意した事だ。もうこれ以上ユリエの涙は見たくない、そう思ったのだ。
何も見えず、痛みも雨に打たれている事も感じない身体で、後藤は安堵の息を漏らしたような、そんな心地よさに包まれた気がした。


若様、どうかボディーガードの責務から離れる事をお許し下さい。

若様、どうかここで倒れる事をお許し下さい。

若様、最後はユリエの悲しみを拭ってやろうと思います。


若様、さよならです────


口を動かしたつもりだったが、動いてはいなかった。
「約束は果たしてあげるよ。代償を支払ってくれたからには悪魔は動くものだからね」
絶対基準隣人は独り言のように呟くとユリエの方へと向かっていった。
雨粒の一つ一つが後藤の身体を癒すように、小さな波紋を描いては血溜まりを薄めていく。それは体温を残さず奪おうとはしていたが、後藤にとっては優しい優しい雨だった。

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