11〜動き出す、外界

倉庫の間に身を隠すように、その青い車は、もう何時間も何の音も吐き出さずに佇んでいた。
江戸川河口に位置する工業地帯、その先端。眼前に広がる暗い海は遠くに光り輝くネオンの元へ行かせまいとしているかのように、圧倒的な存在感でもって立ち塞がっている。
旧江戸川河口域とは違い、放水路として人工的に作られたこの新江戸川河口域は、新しく川を作り上げなければいけなかった原因である工業地域が、勿論広がっている。その内訳は様々だが、物流、製鉄、製銅といった会社の倉庫や工場がこの辺りには多く見られた。
深夜にもなるとこういった場所はほぼ無人となる。建物の内部には人はいるだろうが、夜開いている店などないので、外はゴーストタウンさながらである。加えて倉庫と倉庫の間なんぞに照明は必要とされるわけもなく、その青い車は完全に暗闇に溶け込んでいたと言えた。
場違いなフィアット。この車体の色をカナリア・ブルーと称するほどに洒落て綺麗なスポーツカーが、深夜にこのような場所に停車している理由など、ぱっと見ただけで想像する事は1つである。乗車しているのが男と女1人ずつであれば尚更だ。
「降水確率0%」
トレンチコートを着込んだ男が咥えタバコのまま呟いた。それは決して独り言ではなかったのだが、女からの反応は何もなかった。右をちらりと見やる。助手席の女は眠ってはいない。
「降水確率0%」
少し大きめの声でもう一度言ったが、外を眺めているだけなのに女はまたもや反応しなかった。
「降・水・確・率・0・%」
「あ、ああ、はい。何ですか信さん」
怒鳴る寸前の大声で言ってやっと女が振り返る。
「昨日の天気予報じゃ雨は振らない筈だった。なんせ0だ。0って事はまったくないって事だろう?
1でも2でもあればこんな雨に疑問を挿む事もないんだが」
「あ、ホントだ」
ずっと外を見ていた筈なのに、女は言われてやっと気づいたようだった。
確かに、雨が降り始めていた。
「やけに嫌な雨じゃねえか。これから俺達は大仕事をするってぇのに」
「気にしすぎですよ。それに雨なら身を隠すのに都合いいじゃないですか」
「そうだが……っておめぇ、下の名前で俺を呼ぶんじゃねぇ」
「まだ言ってんですか。親しみを込めてるのが分からないかなぁ……」
「古臭くて嫌だと言ってんだろうが。にごりえかってんだ」
「いいじゃないですか、樋口一葉。今度お札になるんですよ? ほら、流行最先端じゃないですか」
「紙幣に印刷されるのは過去の偉人だ。やっぱり古臭いじゃねえか……」
「分かりましたよ、もう。はいはい、湯浅先輩」
ちょっと拗ねたように女が腕組みをする。拗ねたいのはこっちだというのに。
湯浅は泣きたい気分になった。というのも、自分の部下として配属されてから1ヶ月、この女──名前を九条由香里という──に舐められっぱなしなのだ。嫌っている下の名前で呼ぶ、話は聞かない、それに緊張感がない。
溜め息が自然と漏れる。
「何ですか」
「いや、別に」
由香里から顔を逸らしてタバコに火をつける。雨脚は強まり、車内の沈黙がいっそう強調される。湯浅は窓に向かって煙を吐き出しながら、禿げ上がった上司の顔を思い浮かべた。
(なんだってこんな女を俺の下につけたんだ。そりゃこいつの狙撃能力は使えるが──しかも動きやすい格好って言って何でスーツにハイヒールなんだ?)
上司命令故に従わなければならないもどかしさに、湯浅は寝癖そのままの頭を更に散らかしてタバコを灰皿に押し付けた。
「いったいいつまでこうしてるんですか? 信さん」
「あのな……まあいい。4時までだ」
「あと2時間半もですか。どうしてそんな無駄な事するんです?」
「入り口を塞がれない為だ」
と、そこで由香里が長い髪を前に垂らしながら身を乗り出してきた。
「そうそう、それですよ。いい加減教えて下さいよ、入り口」
「教えてなかったか?」
湯浅のその言葉に、途端に由香里の顔が険しくなる。
「じゃあ教えて貰っていたという事にしましょう。ええ私は無能で役立たずで出来の悪い部下ですから、多分忘れてしまったんです。ここに着くまでも着いてからも仕事の内容に関しての話はまったくしていなかったと記憶してますが、 それも多分私の記憶違いなんでしょう。ですから、も・う・い・ち・ど、教えて戴けますか? 親愛なる湯浅信第二政府特別対策室執行部長」
「う……」
言葉に詰まる湯浅。どうやら言ってなかったらしい。
「わ、悪かったな」
そう言うと由香里は首を満足気に縦に振り席に戻った。気を取り直してまたタバコに火を付けながら、湯浅が口を開く。
「俺らの仕事は勿論暗殺なわけだが──」
「分かってます」
「あー黙って聞けって!」
「早く続けてください」
「…………で、だ。そのターゲットがいるのが陸の孤島みてーなとこなんだ」
「はい」
「で、そこに侵入するのに目の前。見てみろ」
「海ですよ? 陸の孤島に船は辿り着けませんが」
「違う、もっと手前」
「まさかマンホールですか?」

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