9〜敢えて、会えて   >Op, Mariel

夜の闇と桜は風情のある組み合わせだが、ことここにおいてはその二文字はまったくといっていい程なかった。舞い散る花びらは季節の裏側で息を潜めている。そして夜闇はやはり夜闇でしかなく、桜の木々を浮かび上がらせる光はここには存在しない。
唯一の明かりである月は、桜の木がそこにあると認識させるだけの力しか持ちえていない。つまりは孤独と不安の情景である。
紬町の誰もが寝静まった時間。
そんな時間に糸紬丘の一枚岩の上で、匠は何をするでもなくただ空を見上げていた。自分のように夜空を間近に見る事が許されないこの町の多くの者達の嘆きも、あと少しでそれが些事に過ぎなかった事を思い知るだろう──そんな事を考えながら。ただ見上げ──ただ待っていた。
土を踏む音が聞こえてくる。
匠はゆっくりと眼下の暗闇へと顔を向けた。
「待ちくたびれちまったよ」
「そっか、あんただったのね」
桜の木々の合間から闇を溶かすように現れたのは、マリエルだった。この暗がりにおいても異様に浮かび上がって見えるのは、血まみれの顔と、全身真っ赤な服のせいだろう。上着は元は白かったのではと思わせる程に、所々ダーク・レッドの斑模様で塗り散らかされていた。赤系統の絵の具をありったけぶちまけたって、こんなパンキッシュでグロテスクなデザインは生まれないだろう。
「桐崎はどうした?」
「さあ。最善は尽くしたわ」
「後はあいつの生命力次第ってか。ひひひ、上手い事言うなー」
「それよりも」
マリエルは3メートルはあろうかという一枚岩を、綿毛のように風に乗って飛び上がると、
ゆっくりと匠の横に降り立った。
「いいの? こんな時間に。絶対基準が黙っちゃいないわよ」
「来たら返り討ちにするだけだ──けどもう何時間もここにいるのに現れないんだ、今日は来ないだろうな」
隣に腰を下ろしたマリエルを軽く見やりながら、匠は片足を岩から投げ出した。
「で、どんな技使ったらそんな血だらけになれるんだ?」
「ああ──これね」
自分の頬を思い出したように撫でるマリエル。
「血液をね、沸騰させるのよ。後は御覧の通り」
「大した創造力だ。想像力とも言うのかな」
「こんな事──私なら出来てもおかしくないでしょ?」
「そうだな、この地球上の何処にも故郷がないお前なら、俺には想像も出来ない景色を創造出来て当然かもな」
「ねえ覚えてる? あの時最後に話した事」
「ああ。お前の事を思い出して──それからここに来て、やっと。全部」
匠が歯を見せて笑うと、マリエルも小さく溜め息をついてから笑顔を見せたが、それを掻き消すようにすぐに俯いてしまった。
「……私も今日まで忘れてた。さっき、夢の中に出てきた男が思い出させてくれたけど」
「俺か」
「うん。今も変わってないわ、私の想いは」
「故郷が見たい、か」
「止めに来たんでしょ? あの時みたいに。いいわよ、それでも私は止まらない」
「マリー」
ふいに名を呼ばれて顔を上げたマリエルに向かって、匠はペーパーナイフを振りかざすと、ためらいなく振り下ろした。
「避けないんだ?」
「死ぬ気がしないもの」
マリエルは寸前で止めたナイフなどまったく気にもしていないようだった。少し翳りのある表情がナイフ越しに窺えた。

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