5〜逃げて、下さい

「貴様よくも若様を!」
ユリエの反対側にしゃがんでいた後藤が激昂し、立ち上がり様抜き身の銃をマリエルに向ける。
「なに、撃つの? いいわよー気の済むまで撃って。ほら、早く撃ちなさいよ」
自分は無防備だと言わんばかりに両手を広げ、マリエルが嘲笑う。
「晒してやる!!」
「やめて!!」
トリガーを引きかけたところで、泣き崩れていたユリエが唐突に叫んだ。
「後藤さん、今は」
リズムの狂った呼吸に必死に抗いながらユリエは続ける。
「若様を助けて」
後藤を見上げるその顔は涙と血でぐちゃぐちゃになっていた。
「しかし……!」
銃口を向けたまま、マリエルとユリエを交互に見比べる後藤。
「お願い……早く……」
逡巡する後藤。
「若様が死んじゃうっ!!」
桐崎を抱きながら、あらん限りの声で叫ぶユリエに後藤は銃を更に前に突き出して──ホルスターに戻した。そして桐崎の身体を抱き上げると、マリエルを見据えつつ少しづつ後ろに下がった。
不思議な事に、マリエルはいやらしく笑みを浮かべるだけで何もしてこなかった。
「ユリエも早く逃げなさい。若様の事は私に任せておけ。それから凪ちゃん、君も。生きろよ」
凪が頷くのを見届けて、後藤は屋敷の方へと走り去った。
マリエルへと向き直る凪。相変わらず目の前の魔女は何もしてこない。今のうちに逃げられるんじゃないか、とさえ思えるくらい、こちらに対しては無関心に見える。
「凪さん……私が」
ユリエがよろよろと力なく立ちあがる。
「時間を、稼ぎ、ます」
胸を押さえて苦しそうに声を搾り出す。
「その隙、に逃げ、て……」
「ダメだよ! 一緒に逃げるの!」
「あなたは、大切な」
振り返ったユリエはいつもの──今日会ったばかりだが──優しい笑顔に戻っていた。乾きかけた血で塗り固められた顔に二筋の涙の跡が、出来上がった水彩画に水を垂らしてしまったかのように汚らしく浮かび上がっていたが、それでも紅茶を差し出してくれた時と変わらない笑みがそこにはあった。
ユリエは短く息を吸うと最後の一言を言い切った。
「お客様、です」
会釈をし、マリエルへゆっくり歩を進めるユリエはそれっきり振り向く事はなかった。
「次はあんた? せっかく逃がしてあげようってのに」
「嘘が御上手ですね」
「ま、ね。でも抵抗もロクに出来ない奴は燃えないからどうでもいいのは確かなんだけど」
「私、若様の」
「何よ?」
「近くに、いるん、ですよ?」
「だから何よ?」
「御守りする、ために」
苦渋と微笑みが混ざった表情で続ける。
「こんなの、もあるん、です」
ユリエはマリエルに手が届く距離まで近づくと、エプロンのポケットから小さな小瓶を取り出して見せた。
「粉末、状の」
密閉の封印が解かれる、小気味良い音。
「劇、薬です」
「ふうん」
さしたる脅威も、興味もないといった顔で前髪をいじくるマリエル。
「凪さん、巻き込ま、れ」
障害の為一旦言葉を切らなくてはならないユリエは、内容を推測できるだろう部分だけ喋ると台詞を中途半端に切った。その後数文字なのに、続けるのももどかしいといったように。
「でもユリエちゃん……」
「もうほんっとにくだらないわね、あんた。逃げてって言ってんだから逃げてあげればいいのよ。
……もしかして見捨てていけない、とか力もないくせに美談を仕立て上げて2人で死ぬべきだとでも思ってんの? 私はね、無力な奴が吠えるのほど嫌いなもんはないのよ!」
マリエルが先に凪に襲い掛かろうとするのを、手を掴んで止めると、ユリエは語気を強めて言った。
「残念で、すが、この」
「放しなさい!」
「方の、言うとおり、です」
「彷徨う燐火の──」
「だから、逃げてっっ!!」
自分の為に身を挺して守ろうとしてくれているユリエの言葉に耳を傾けないで、無力な自分の愚かな美意識をこれ以上晒し続けるのは、馬鹿をも愚者をも内包したただの自殺志願者──いや、自殺ならまだ可愛げがあるが、無意味に他人に犠牲を強いて尚、自分の命も犠牲にしようとする心中志願者など、人間の底辺に更に穴を開けてもまだ足りないくらい最低である。
「ありがとうっ!」
空に向かって凪は叫ぶ。
「蔓(ウィスプ・ヴァイン)!!」
背を向けて拳に力を込めて、声や音や目に映るもの全てを振り払うかのようにかぶりを振って、凪は走った。百合園を突き抜ける道をひたすらにまっすぐと。
途中で転倒して。
振り向いて。
誰もいなくて。
そして、呟く。
「友達だよ……!」

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