13〜魔女の生活

「誰だって今まで知らなかった故郷があると分かったなら、帰りたくなるものでしょ?」
女、だろうか。酷く輪郭が不鮮明ではっきりとは分からない。口調で女だと判断する。
「それはそうだね。でも君が今立っている世界、それこそが故郷だよ。帰りたいという願いはもう叶っているじゃないか」
答えたのは男、だろうか。これまた輪郭が不鮮明ではっきりとは分からない。これも口調から男と判断する。
「あんたはいつもそう。雄弁に詭弁を語る。私が言っている故郷がどこか、だって分かっているくせに」
「だって君がどんなに願ったとしても、それは叶う事じゃないじゃないか」
「それは分かってるわ。故郷があったら帰りたい、ただの一般論よ。私は違うわ。帰りたいなんて思わない。故郷の記憶なんてないし、第一私からは行けない場所にあるんだから」
「随分と含んだ言い方だね。はっきりと言ってみなよ」
「あんたにそんな風に言われたくはないわね。まあいいわ、私からは行けないのなら、つまり――」
「向こうから来てもらうって? 随分と突拍子もない逆転の発想だね。故郷に来てもらうなんて面白い冗談だ、笑っていいのかい?」
「ま、笑えない冗談よ」
「そうやって君はすぐにはぐらかす。詭弁よりタチが悪いんじゃないのかな」
「それははぐらかされる方が悪いのよ。でも今のは本当に冗談よ」
「分かっているさ。最初の発言を聞いた時点で分かっていたよ」
「また詭弁?」
「いや、これは確信だったね。うん、君の考える事が分かる、と言うのかな。君みたいなタイプは大好きだから」
「その告白は私の存在を否定するみたいで嫌ね――ありがとう」
「君が本当に考えてる事を言い当てようか?」
「やめて。多分当たっているんでしょう? なら胸の内に留めておいて欲しいわね」
「そうかい? それでも言わなければいけないある種の使命感を、僕は感じているんだけどね」
「やめて」
「自分の愛する人を殺めてまでする事なのかい? それは――」
二人の輪郭が、世界が、更に形を歪めていく。
「そうね、きっと彼も分かってくれるわ。愛する私の願いだもの」
金髪で縦巻きロールの女が去り際にそう言った。テニスラケットを小脇に抱えながら。次のコマでは男が必死に去り行くその女に向かって叫んでいた。
「マチルダァーッ!!」
本に顔をくっつける体勢だった為、その先は読み取れなかった。自分が今何をしていたのか、数秒ほど思考してからマリエルはああそうか、と顔を上げる。
勉強の為本を読んでいたのだった、とくっきり折り曲げられたその本に視線を落とすと、顔をくっつけていたページがよだれまみれだった。
「あーまたやっちゃったかあ」
マリエルは口の端を拭うと、読みかけのその本を無造作に手に取り、背後にあるゴミ箱の方を見もせずに自分の肩越しに放った。トリッキーなシュートは見事成功に終わる。それから時計を見る。昼を少し回っていた。
「また買ってきといてもらおう。翁、いる!?」
マリエルが大声で叫ぶと、どたどた、と足音をあげながら部屋に一人の老人が駆け込んできた。
「はいはい、マリーどうしたんだい?」
柔和そうな顔を向ける白髪で皺くちゃの老人――翁は、高齢であるだろうにもかかわらず息一つ切らさずにマリエルに優しい声を掛ける。胸まで達する長い顎鬚に手をやる翁に、マリエルはそれ、と言いながらゴミ箱を指した。
「汚れちゃった。また同じの買ってきといてくれる? 何だっけ、えと、そう、<ウィンブルドンの薔薇>の5巻」
「マリーや、それはもう3冊目だよ。もう少し丁寧に読めないのかい?」
「うるさいわね、私が買ってきてって言ったら大人しく買ってくればいいのよ!」
椅子に座って机に肘をつきながら鬱陶しそうにマリエルが言い散らす。翁は困った顔を向けながらゴミ箱から本を拾い上げた。
「しょうがないね、分かった。マリーはあまり外に出れないからね、この漫画も人間社会の勉強の為だって言うんだから買わないわけにはいかないね」
そう言うと翁は優しい顔に戻って、少女漫画を手にマリエルの部屋を後にする。それだけのコミュニケーションだった。
再び一人になって、物音一つない部屋の中でマリエルはふと思い出す。

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