19〜最後の待ち人

その瞬間、何が起こったのかを理解できた者は仕掛けた本人以外誰もいなかった。
それは匠にも追う事の出来ないスピードだった。腹に翁の掌が押し当てられたマリエルは、疑問符を浮かべたままの状態で、まるで風船のように背中を膨らませて、そして弾けた。悲鳴を上げる間など欠片もなかった。
「ああ……お別れだねえ……」
翁が見せたその笑顔には、悪意や敵意などは微塵もなかった。今までずっと注いでいた愛情は健在に思える。
しかし、自分の子供と称したマリエルを躊躇いもなく手にかけた。
「てめえぇっ!」
匠が鋏を抜きざまに翁に向かって振るう。が、瞬き一つの間を置いた後に翁の姿は掻き消えていた。
「遅いよ、匠君」
左、と思った時には匠の身体に手が押し当てられていた。湯浅の攻撃に似た内臓への衝撃が体内を駆け巡る。
ただ違うのは、湯浅の衝撃は内部で留まっていたが翁の衝撃は内部を掻き回した後、外へと力を吐き出させる。よってダメージは湯浅のそれを超える。
「あああがあぁ……っ!」
右腹部が弾けてびちゃ、と赤と白の混ざった肉片が飛び散った。そして匠もまたマリエルの後を追うように倒れる。
「奇跡の恩恵を受けるのは私一人だけですよ……。ああこの時をどれ程待ち焦がれた事か……!」
涙を目尻に溜めながら光を見つめる翁。その足を、マリエルが掴む。
「ぁ……の……よ……」
喉が血で詰まって力を発する事はおろか、声を出す事すらままならない。それでも紅い瞳から零れる悔し涙の奥に意志の炎を宿して、マリエルは翁を見上げる。
「ああマリエルや、今までお前には随分と苦労をかけさせられたものだよ。従順な子供なら愛情も湧いたかもしれないねえ。けれど──」
笑顔のままでマリエルを蹴る翁。何度も何度も何度も何度も。その度に無抵抗なマリエルの身体が小刻みに揺れる。
「ただの一度もお前を可愛いと思えた事はなかったよ」
喋りながらも蹴る事を止めない翁。遠目で見ていた雪が思わず目を覆った。
「――さて」
と、足をぴたっと止めると、翁は振り返って雪を静かに見つめた。
「……そうだねえ、君には見届け人になって貰うよ。この私が奇跡の体現者になる瞬間をね」
それから翁は奇跡に向き直ると、両手を広げて地を蹴った。光の中へ、奇跡の中へ、その小さな身体をいっぱいに広げて飛び込んでいった。
雪はやはり何も出来ずに、翁がいなくなった後でも穴を見つめたまま呆然とするだけだった。

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